<おすすめ漫画・アニメ・イラストの参考用戦国武将兜など>

戦国武将兜などで漫画・アニメ・イラストの参考に!!

♠いや〜、最近の造形よくできてますね〜!!
商品の仕様 サイズ:横幅17.5cm、奥行き9cm、高さ21cm セット内容:戦国武将甲冑、刀、刀台、旗指物、名札、専用ケース(家紋入り) 材質:ダイキャスト(金属)・真鋳等


上杉謙信 1530年~1578年 戦国時代の武将、越後の戦国大名である。元の名前は長尾景虎(ながおかげとら)。 正式な名のりは、長尾氏の時は平景虎(たいらのかげとら)、 上杉氏の時は藤原政虎(ふじわらのまさとら)、後に藤原輝虎(ふじわらのてるとら)。 越後国の守護代を務めた長尾氏に生まれ、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を継ぎ、 周辺の武田信玄、北条氏康らと和戦を繰り広げた。 武田信玄と戦国の双璧をなし、自ら毘沙門天の転生であると信じ越後の虎とも越後の龍とも呼ばれる。 室町幕府最後の関東管領でもあった。 辞世の句 「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」






大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続の武将フィギュアです。 直江兼続 1560年~1620年 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。 父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曽義仲の重臣樋口兼光の末裔という)、 母は信州泉氏の娘(直江景綱の妹説もある)。 仙桃院(謙信の実姉で上杉景勝の母)の推薦で、幼い頃から景勝に近侍していたといわれるが、 当時の様子が窺える良質な史料はなく、父・兼豊の身分についても見解が分かれている。 「藩翰譜」によれば兼豊は薪炭吏だったという。 主君である上杉景勝を上杉謙信死後から補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の 贈与などの引き抜き行為を幾度も断るなど、忠義に厚い名将として知られている。 秀吉評 「天下の仕置きが出来るのは小早川か直江」






武田信玄 1521年~1573年 戦国時代の武将。名は晴信。信玄は法名。父、信虎を追放して家督を継ぎ、信濃に進出。 越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。 1572年、西上の途次、三方ヶ原で徳川家康を破ったが、翌年三河の陣中で病没。 父信虎を廃して甲斐(かい)の守護となり、信濃一円を制し、上杉謙信と対立、数度に及び川中島で合戦。 のち、京都進出を企てて三方ヶ原で徳川家康を破り、三河に入ったが、陣中で病死。 軍略家としてすぐれ、「信玄家法」を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。 信玄堤の名で知られる治水工事など、領国経営にも尽くした。 武田信玄が用いた軍旗に記された「孫子」の句 「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」






山本勘助 1493年?~1561年? 戦国時代の武将。諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。勘介とも書く。 武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。 武田信玄の伝説的軍師として講談などで有名である。 架空の人物ではないかとの説もあるが、武田信玄書状に「山本菅助」の名があることから、 最近では実在した人物であるとの説が支配的である。 近年の研究で、勘助は武田軍の伝令将校だったのではないかとする説もある。 生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年~1561年という。 生年は明応9年(1500年)説、文亀元年1501年説がある。 没したのは1561年9月10日川中島の戦いで討死したとされる。






真田幸村 1567?年~1615年? 安土桃山時代から江戸時代前期の武将。生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。 武田晴信の家臣であった真田幸隆の孫。 大坂の役で活躍。 特に大坂夏の陣では、寡兵を持って徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめたとされる。 江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて、 大敵徳川に挑む天才軍師真田 幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。 島津忠恒の国許への書簡において 「真田日本一の兵 いにしえよりの物語もこれなき由」






織田信長 1534年~1582年 戦国時代・安土桃山時代の武将。信秀の三男。 1560年、今川義元を桶狭間の戦いに破って勢威をつけ、尾張一国を統一。 京都に上って比叡山を焼き、姉川の戦いで浅井氏・朝倉氏を破り、 73年将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させた。 武田勝頼を三河の長篠の戦いに破ったのち、安土に築城。安土城を築いて全国統一に乗り出す。 寺社など中世的権威を破壊する一方、貿易の奨励、楽市楽座の設置など革新的諸事業を断行した。 中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあって自殺。 辞世の句 「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」






池田輝政 1565年~1613年 戦国時代末期から江戸初期にかけての武将・大名。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。 池田恒興の次男として尾張国に生まれた。 織田信長に仕え、天正7年の花隈城攻略の時(花熊城の戦い)には、軍功により信長から感状を授けられた。 本能寺の変後は、父兄と共に豊臣秀吉に仕える。 豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。 また、豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若御前 (秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。 文禄3年、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。 戦後、播磨国姫路城52万石に加増され、名を輝政と改めた。 姫路城を大規模に改修し、慶長17年、正四位上参議、および松平姓を許され「播磨宰相」 「姫路宰相」などと称された。 また、二男忠継の備前国岡山城28万石、三男忠雄の淡路国洲本城6万石、 弟長吉の因幡国鳥取城6万石を合せ、一族で計92万石もの大領を有して、世に「西国将軍」等と称された。 徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。






山内一豊 1545年~1605年 戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の武将・大名。 土佐山内氏の当主であり、初代土佐藩主。通称は伊右衛門。 尾張国葉栗郡黒田にある山内家の居城であった黒田城に生まれる。 当時山内家は岩倉織田氏の配下であり、父盛豊は家老として仕えていた。 ところが岩倉織田氏は同族の有力者・織田信長と対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれ、山内一族は離散し流浪することとなる。 一豊自身は主を転々とするが、永禄11年頃には織田信長に仕え、木下秀吉の与力となったと考えられる。 その後、天正元年8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いにも参加し顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。 このとき一豊の頬に刺さったと伝えられる矢は、このとき矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、 現在高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。 これらの功績により近江国浅井郡唐国で400石を与えられた。 この際に秀吉自身が自身の郎党をほとんど持たないことから彼の直臣に立場を変えたと考えられる。 なお、400石という禄は同僚であった浅野長政・堀尾吉晴・中村一氏らが同じ時期に 100台であったことから、彼らより一歩先に出るものであった。 一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金で名馬(鏡栗毛)を買った。 この逸話は特に戦前日本において教科書に採りあげられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。






豊臣秀吉 1536年~1598年 安土桃山時代の武将。尾張中村の人。織田信長の足軽木下弥右衛門の子。幼名日吉丸。初名木下藤吉郎。 織田信長に仕え、戦功をたて、羽柴秀吉と名のり、軍功によって重用され、筑前守となる。 本能寺の変による信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、 ついで四国・九州・関東・奥州を平定して1590年天下を統一。 この間、1585年(天正一三年)に関白、翌年豊臣姓を賜って太政大臣となり、 91年関白を養子秀次に譲り太閤と称した。 太閤検地・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。 のち、明国征服を志して文禄・慶長の役で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城で病没。 茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。 辞世の句 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわの事も 夢のまた夢」






前田利家 1539年~1599年 戦国時代、安土桃山時代の武将、大名。加賀藩主前田氏の祖。 尾張国海東郡荒子村において、 その地を支配していた土豪荒子前田家の当主である前田利昌の四男として生まれる。 幼名は犬千代。 14歳で織田信長に仕え、元服し前田又左衞門利家と名乗った。 青年時代は血気が盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれ、 信長の親衛隊的存在である赤母衣衆となり、加増を受けて家臣を抱える。 父の利昌が死去し長男である兄・利久が家督を継いでいたが、 信長は永禄12年に利家に前田家の家督を継ぐように命じる。 利家は信長が推進する統一事業に従い、数々の参戦が確認されているが、母呂衆、 馬廻りという役柄から大きな武功を立てる機会が無かったであろうと考えられている。 豊臣政権では徳川家康と並ぶ重臣の扱いを受け、秀吉が五大老・五奉行の制度を整えると 五大老のNO.2として大納言の官位を持ち、秀吉の実子である豊臣秀頼を後見する立場となった。 1598年には家督を長男・利長に譲り隠居する。 秀吉の亡き後、法度を破った家康に反発し、 諸大名が家康・利家の屋敷に集結する騒ぎとなったが、利家が家康のもとを訪問し和解する。 この直後、利家の病状が悪化し、大坂の自邸で程なく病死。 家康と唯一互角に渡り合える程の人望と武略を持っていた 利家の死去は、豊臣氏滅亡が決定的となる一因ともなった。 加賀に残された歌 「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」






前田慶次郎 1543年?~1612年? 父は織田信長の家臣、滝川一益の甥 益氏であり、慶次はその庶子。 母が前田利家の兄の利久と結婚したので養子となり義父と共に織田信長に仕える。 しかし利久は信長によって家督を利家に譲るように命じられ、利久・慶次親子は放逐される。 秀吉が天下を治めると、利久・慶次親子は利家より七千石の地を与えられいったん前田家に戻る。 しかし義父利久が永眠し、慶次は前田家出奔という前代未聞の事件を起こす。 その後、慶次は京都に仮の住居を求め、そこで文武の道に己を凌ぐ人物として、直江兼続に接して交流を深める。 兼続を生涯の友として認め、また謙信以来の武と信義を誇る上杉景勝を主君として仰いだのである。 上杉家では一千石で召し抱えられ、組外御扶持方という自由な立場にあったという。 その後米沢にて、堂森山北東のほとりに庵(無苦庵)を結び、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。 慶次は「かぶき者」としても多くの逸話が残されているが公家や文人とも交わって和漢古今の書を親しみ、 源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられ、連歌、茶道を学び、武術については弓馬はもちろんのこと、 十八般に通じ多くの戦場で大活躍したと伝えられている。 前田慶次郎道中日記より 「誰ひとり 浮世の旅を のがるべき のぼれば下る あふ坂の関」






黒田長政 1568年~1623年 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前国福岡藩の初代藩主。 永禄11年、黒田孝高の嫡男として播磨国姫路城に生まれる。 天正5年から織田信長の人質として、織田家臣の羽柴秀吉の居城・近江国長浜城にて過ごした。 天正6年、信長に一度降伏した荒木村重が信長に反旗を翻したとき、父の官兵衛は村重を説得する為に伊丹城に乗り込んで拘束された。 この時、信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、村重方に寝返ったと考えて長政を処刑しようとしたが、 竹中重治(半兵衛)の機転のおかげで一命を助けられている。 その後、信長から「長」の偏諱を与えられ長政と名乗った。 慶長5年に家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起すと家康に従って出陣し、 出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。 三成に対する恨みからか、本戦における黒田隊の活躍は凄まじかった。 長政は調略においても西軍の小早川秀秋をはじめとする諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、 それらの功により戦後、家康から一番の功労者として筑前名島に52万3000石を与えられた。






加藤清正 1562年~1611年 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。 豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦して武功を発揮。 肥後熊本の領主となる。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いで武功を挙げて肥後熊本藩主となった。 「賤ヶ岳七本槍」の一人として数えられるが、彼の武功は朝鮮の役におけるものが最も有名である。 肥後熊本では現在においても人気が高い。 智勇兼備の名将としてだけではなく、築城の名手としても有名である。明治43年に従三位を追贈された。 また、朝鮮の役での虎退治の伝説も有名である。 なお、手話において加藤姓を表す際は加藤清正の虎退治の 古事にちなみ槍を前に突き出すようなジェスチャーを行う。 辞世の句 「我が死なば 具足を着けさせ 太刀かたなを佩かせ 棺に入れ納むべし 来世の軍神たらん」






戦国武将 石田三成のフィギュアです。 隅々までこだわった上質なフィギュアです。 省スペースでアクセントのある飾りに最適です! 石田三成 1560年~1600年 関ヶ原西軍の実質的総大将。 天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕える。 本能寺で信長が討たれ、次の天下人として秀吉が台頭すると、 三成も秀吉の側近として台頭していく。 秀吉配下時は内政のエキスパートとして功績を挙げていく。 1598年秀吉が死去、次の天下人を狙う家康が台頭をあらわし始め、 1600年三成は家康を排除しようと上杉・直江と挙兵の密約を得て、 上杉が徳川に反旗を翻し、討伐に来た徳川勢を東西挟撃の期と見て挙兵を決意。 全国の大名が徳川勢の東軍と石田勢の西軍の二分に別れ 東西両軍が関ヶ原に合間見えることになる。 同日の正午すぎに徳川と内通していた小早川秀秋が裏切り、 1万5千の大軍が東軍に付く。 小早川に呼応した他西軍四諸隊が裏切り、西軍が総崩れになる。 三成は伊吹山に逃亡を試みるも追手に捕まり、 同年10月1日に六条川原にて斬首された。 辞世の句 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」






明智光秀 1528年?~1582年 戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。 清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。幼名は桃丸。 永禄12年頃から木下秀吉らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務にあたったとされる。 義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を分かち信長の直臣となる。 数々の戦功をあげ元亀3年頃に近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築城してこれを居城とした。 天正3年には惟任の姓、日向守の官職を与えられ、惟任日向守と称す。 石山本願寺や信長に背いた荒木村重、松永久秀を攻めるなど 近畿の各地で転戦しつつ丹波国の攻略を担当し天正7年までにこれを平定。 丹波一国を与えられて丹波亀山城・横山城・周山城を築城した。 京に繋がる道の内、東海道と山陰道の付け根2つを与えられたことからも 光秀が織田家にあってかなり重要なポストにあったことが伺える。 天正10年、羽柴秀吉の毛利征伐支援を命ぜられて出陣する途上の6月2日(西暦6月21日)早朝、 桂川を渡り京へ入る段階になって光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、 主君信長討伐の意を告げたといわれる。 自分を取り立てた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すこととなった。 しかし、信長の死体が消えたため、信長の首はとれなかった。 一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だあいまいなことと相まって、 後に良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が数多く作られることとなる。 辞世の句 「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」






徳川家康 1542年~1616年 江戸幕府・初代将軍。在職1603-1605。三河岡崎城主・松平広忠の長男。 幼名竹千代、のち元信、元康、家康と改めた。 はじめ今川義元、のち織田信長と結び東海に勢力を拡大、信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。 豊臣秀吉の天下統一後はこれに協力、関八州を与えられ、1590年江戸入府。 関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり、江戸に開幕。 将軍職を譲った後も大御所として実権を握り、大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、統一を完成した。 織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。 豊臣氏五大老の筆頭となり、秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、 慶長八年(一六〇三)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。 秀忠に将軍職を譲ったのち駿府に隠退したが、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、 武家諸法度などを定めて、幕政の基礎を築いた。 辞世の句 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」






本多忠勝 1548年~1610年 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。 上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。 松平氏の三河譜代家臣・本多氏の一族で、本多忠高の長男として天文17年、三河国蔵前(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。 幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。 元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、 武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名である。 晩年、彼は小刀で持ち物に名前を彫っていた。 その時、うっかり手を滑らせ、指に小さな切り傷を負ってしまう。 忠勝は「わしの命運もここまでか」と嘆き、実際にその数日後に死去した。 これが彼の生涯で唯一の負傷だったと伝わる。 本多忠勝の名言「常山紀談から」 「思慮なき人も、思慮ある人も功名するなり。思慮ある人の功名は士卒を下知し、大なる功名を遂ぐるものなり。」






井伊直政 1561年~1602年 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。 井伊氏第24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩の初代藩主。 さらにその後に近江国彦根藩の初代藩主。 徳川氏の家臣。徳川四天王の一人。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。 遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、 柳営秘鑑では榊原氏や鳥居氏と並び三河岡崎御普代として記載されている。 また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となった人物であり、 現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 小牧・長久手の戦いでは大いに活躍し、徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵を有していた 羽柴軍の総大将である羽柴秀吉やその配下の武将達も井伊の赤備えには大変手こずったという。 この頃から井伊の赤備えは、『戦国屈指の精鋭部隊』または、 『徳川家臣団最強の部隊』と見なされ、諸大名に恐れられるようになる。 以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。 井伊直政の和歌 「たちそふる 千代の緑の 色ふかき 松の齢を 君もへぬべし」






榊原康政 1548年~1606年 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。 上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。榊原家初代当主。 天文17年、榊原長政の次男として三河国上野郷に生まれる。 康政は幼くして松平元康に見出され、小姓となる。 天正12年、家康が織田信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。 この合戦で、三好秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせた。 また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書いたという。 激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金首をかけたと言われるが、康政は羽黒の戦いでも戦功を挙げた。 もっともこれによって秀吉の注意を引き、家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられて従五位下、式部大輔に叙任された。 榊原康政の檄文 「信長公倒れるや、秀吉はその高恩を忘れ先に信孝を滅ぼし、今また信雄を討ち主家を横領せんとす。 大逆無道の振る舞いである。家康公、信長公との親交を想い憤激に耐えず、大意のため秀吉を討たんとす。 天下諸侯よ、非道逆賊の秀吉に与して千歳に恨みを残すなかれ。我が義軍に合力し令名を後世に伝えられよ。」






伊達政宗 1567年~1636年 伊達輝宗の長男。幼名、梵天丸、長じて藤次郎。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。 出羽の人。仙台藩祖。 畠山・蘆名氏を倒して奥州を制覇。のち、豊臣秀吉に仕えて朝鮮に出陣。 関ヶ原・大坂の陣には徳川方につき仙台藩の基礎を固めた。 キリシタンに関心をもち、支倉常長(はせくらつねなが)をローマに派遣。 幼時に右眼を失明し独眼竜と称された。 出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。 戦後、仙台藩六二万石を領した。 和歌・茶道に通じ、桃山文化を仙台に移した。 辞世の句 「曇りなき心の月を 先だてて 浮世の闇を照らしてぞ行く」






戦国武将 片倉小十郎のフィギュアです。 隅々までこだわった上質なフィギュアです。 省スペースでアクセントのある飾りに最適です! 片倉小十郎景綱 1557年~1615年 幾度と無く正宗の窮地を救う はじめ伊達政宗の父・輝宗の徒小姓として仕えた。 その後、遠藤基信の推挙によって天正3年(1575年)に政宗の近侍となり、 軍師として重用されるようになる。 人取橋の戦いや摺上原の戦い、小田原参陣、関ヶ原の戦いなど 政宗の戦の大半に出陣し幾度も政宗の窮地を救っている 「登り竜いるところに小十郎あり」と言われるほどだった。 またこのようなエピソードも残っている。 政宗は幼少期に疱瘡(天然痘)が原因で右眼の視力を失った。 しかも病後その患った眼球が眼窩から突出し、その醜い顔貌から 政宗は大きな劣等感を抱き無口で暗い性格になってしまった。 景綱はそんな政宗の性格を直すために政宗を侍医のいる部屋に引っ張っていき、 自ら政宗の頭を抱え込み短刀で一気に眼球を抉り出したという。これ以降、 政宗は暗い性格から快活で文武両道に精進する少年に変貌したという。 白石城周辺の旗より 「俺が行かずば誰が行く 伊達の先鋒 片倉小十郎 見参!!」






今川義元 1536年~1598年 駿河の守護大名である今川氏の第9代目当主。 第7代当主・今川氏親とその正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)の子。幼名は芳菊丸。 正室は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたる定恵院。子に今川氏真、娘は武田義信の室となった。 ライバル・北条氏康は義弟にあたり、また武田信玄の義兄でもある。 寄親・寄子制度を設け、軍事組織力の革命的な改革を行った。 桶狭間の戦いで織田信長軍の攻撃を受け討死した。 和歌 「心をば 紅葉に染めて 榊葉の 常盤の色を 契ともかな」






島津義久 1533年~1611年 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第16代当主。 3人の弟を使いこなし、九州を制覇した名将である。家系は源頼朝の長庶子ともいわれる忠久を祖とする島津氏。 室町幕府の薩摩守護職・大隅守護職・日向守護職。 弟義弘と協力して、豊後・大友氏、肥前・龍造寺氏ら有力大名を打ち破り九州を掌中にする。 しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け、抗戦するも敵わず降伏し、薩摩・大隅2国と日向の一部を安堵された。 関ヶ原の戦いでは、西軍につき敗戦した義弘に代わり上京、家康に謝罪している。 古今伝授を受け、教養高い武将でもあった。 辞世の句 「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」






毛利元就 1497年~1571年 室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名。 安芸国吉田郡山城を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸、仮名は少輔次郎。 安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、 戦国時代最高の名将の一人と後世評される。 用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。 本姓は大江氏。家系は大江広元の四男、毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。 ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。 息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。 元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけたというもの。 これが有名な「三本の矢」のエピソードである。 また、三子教訓状などを通じ、元就が生前から一族の結束を繰り返し息子たちに説いていたことは事実である。 死の三月前の花見で詠んだ句 「友を得て なおぞうれしき 桜花 昨日かはる 今日のいろ香は」